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生に対する恐れ、そしてそれを終わらせる内側を見るという単純な行為

 

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ジョン・シャーマン

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(2014年11月12日改訂)

 

生に対する恐れの起源

生に対する恐れは私たち人間のなかに自動的に生まれるが、それは誕生の際に子宮から追い出されるときに起こるものと考えていいだろう。何の前触れもなくだしぬけに眠りを中断され、気がつけば、のちに経験、印象、感覚、感情などと呼ぶことになる、激しく荒れ狂う嵐の中だ。私たちの存在の意識は、子宮内での深いまどろみから追い出され、いまや意識が直面しているのは、暴力的で落ち着かない動き、痛み、圧迫、騒音、まばゆい光、そして外の世界への放逐に伴うあれやこれやの騒ぎという驚くほどの爆発だ。当然のように恐れと収縮が生じる。

 

生に対する恐れの影響

そこから時間が経って、むきだしの経験の最初の襲来をどうにか耐えぬいたことがわかると、生に対する恐れの緊張と強烈さはしだいに背景へと退きはじめる。ほとんどの人の場合、それはたいていは表面から姿を消し、自分の生に対する不安、心配、不満、不信といった非常にかすかなつぶやきに変わって、あらゆる経験のBGMとして絶え間なくささやき続けることになる。それは、人間としての生そのものが問題だという感覚、幸福に必要な重要な特質が生自体にはそもそも備わっていないという感覚、著しく間違った何かが生には初めから混ざり込んでいるという感覚、そういうしつこい感覚だ。生が望みどおりになることなどありえないという感覚。

この不安と不満のつぶやきは、ほとんどの人の場合、根底にありながら見直されることのない前提となって心をかたちづくり、生を実際に知覚する視点はその上に築かれる。そうした前提に左右され、そうした視点の制限を受けながら、人間は自分の生の状態をさまざまに解釈し、その解釈をもとにして行動するようになる。

その結果、ある思い込みにたどりつく。人間であることの問題を解決する方法を見つけるためには、間違っている何か、脅威になっているその有害な何かを心の中で見つけ出して破壊するか、そうでなければ、正しくて安全で納得できるものを心の中で探し出して、それをつかむしかないのだと。

必然的に抵抗することになる。生はもともとあてにならないし、危険なものだと信じているからだ。そう信じていれば、警戒を続けながら、脅威を特定してそれを打ち破る方法を探す必要に迫られることになるのは当然だ。

そしてお互いの関係においては、守りの状態、防御態勢、警戒状態、閉鎖的姿勢を絶えず維持するようになる。他人にだまされないように、あるいは他者から保護される機会を逃さないように。

うねりながら変化する傾向としての生の力、自分の心の背景になっている生の力は、存在と感情のありかたであり、それは自分個人に属しているものなのだと思い込むようになる。その存在と感情の状態こそが自分の生の本質であり、もっと言えば自分自身の本質に違いないと信じる。そして失望する。

 

生に対する恐れに対処しようとして失敗してきたことについて

私たち人間には、理解し、つかみ、壊し、無視するという戦略をとりながら満足を手に入れようとして失敗してきた長い歴史がある。理解や反応が起こることそれ自体が問題なのだと信じるにいたった人も数多く、そうするとそれは多くの場合、心の静寂と静止状態を生み出すための修行や探求につながる。なかには、思考そのものが問題であって思考は止めなければいけないと判断した人たちもいる。さらには、エゴを根絶しなさいとまで言う人たちもいるが、エゴとは「私」を表すラテン語であり、それは私が自分を指すときの呼称にすぎない。

さて、生存のためのこうした技法や戦略 ― 正しさ、抵抗、依存、無関心、残忍な攻撃といったもの ― が出てくることには、そして人が自分を守ろうとするときにそうしたやりかたが採用されてきたことには、もっともな理由がある。やりかたは誤りであったとしても、そこには正当な理由があったのだ。生はまったく当てにならず脅迫的で、それは見せかけの希望と空約束で生が私たちをいい気分にさせているときであっても、あまり変わらないように思える。

ほとんどのケースでは、生に対して不満があるときに通常発生する確実で間違いのない反応は、断固とした無言の拒絶だ。

 

症状を治療することで病気を治そうとすること

自分の生をまともなものにしようとして私たちがこれまでずっとやってきたのは、心の矯正だ。閉ざされた狭い心ではなく、優しく思いやりがあって率直な心、愚かではなく賢い心、狂気ではなく正気、混乱ではなく明晰な心を私たちは求める。だが、心 ― その特性、その強さ、その弱さ、その思い込み、その視点、その移り変わり、その感情、その思考、その誤り、その正しさ ― 、心は問題ではない。心とは結果の集まりにすぎず、そうした結果の大半は、生に対する恐れが症状としてあらわれたものだ。そのことに気づかないままで、自分の生を台無しにしている根源的な不満を終わらそうとして私たちがやってきたことのほとんどすべてが、不満という結果を変えようとすることだったのだ。言ってみれば、症状を治療することによって病気を治そうとしてきたのだ。

そして当然のことだが、どれもうまくいかない。うまくいくはずがない。症状から逃れようとすること自体は何も悪くないが、症状を治療したところで病気そのものが治ることはない。

私の考えでは、生に対する恐れをひとつの病気としてとらえることが助けになる。生に対する恐れは、誕生のときに唐突にふりかかってきた災いだ。この病気の存在は、人の存在の本質とも、意識の明晰さとも、正しさとも、意欲とも、理解とも、信念とも、価値とも価値のなさとも、まったく関係がない。この病気の発生に関しては何も口出しをすることができなかったし、それが生じるのを防ごうにも何もしようがなかった。それでも、この病気の影響は人生全体に及ぶ ― 過去に出現し、現在を台無しにし、未来へも続いていく。

そして、症状を攻撃することでこの病気を根絶しようとする必死の努力にもかかわらず、聖人たちの敬虔さと献身にもかかわらず、智慧の教えに見られる機知と洞察にもかかわらず、資本主義の繁栄によって自分自身に関する問題を検討するのに十分な富と教育と時間を手にしたにもかかわらず、人間は症状をやわらげることについてさえ、ほとんど何もできていないし、せいぜい手にできたのは、さまざまなやりかたでそうした症状に無感覚になるための自制的な衝動であるにすぎない。現実がどうなっているかといえば、大部分の人たちにとっての生と死は、低空を進む苦悩状態、自分の生からの神経症的な疎外の中で起こるものであり、そこにときおり情熱や絶望のひとときが混ざったりしながら、死によってのみ静寂がもたらされる。

失敗してきたのも無理はない。姿の見えない誤った思い込みをもとにして、これまでずっと行動してきたのだ。人間としての生そのものが人間として生きることの問題なのだという誤った思い込み。そうした思い込みから流れ出ている悲観と絶望という川の中を泳いでいれば、生の中で安全な居場所を見つけられる可能性はあまりない、ということに気づくのに悟りは別に必要ない。

 

生に対する恐れについて私たちにはできることがある

できることが何かあるはずだ。明らかなのは、人類の中には ― 大勢ではなく少数だが ― 生の中で平安と自由を発見したように見える人たちがいるということだ。例としてはブッダが思い浮かぶし、いろいろな時代、さまざまな伝統において他にもそうした人たちをたくさん見つけられるが、その誰もが人間としての生において深遠な調和と充足を達成したと考えていいだろう。そして、彼らは自分が見たものについてその感じを私たちの心に呼び覚ますことにおいては非常に成功しているわけだが、彼らが見たものを私たちが自分自身で直接見られるようにするためには何をすべきか、というアドバイスを実際に役立つかたちで提供することについては、ほとんど結果を出していない。

私はここで、自分で実行可能かつ効果的な方法を提案したい。効果があると言えるのは、私自身に効果があり、妻のカーラにも効果があり、世界中の多くの人たちのあいだで効果を生み続けているからだ。もっと別のことを選んでもよかったかもしれないのに、私の言ったことを実際に試してみた人たちのあいだで。

なぜそのやりかたが効果を生むのかということについて、私は自分なりの考えを持っている。だが、間違いなく効果を生むという確信は、理論上の解釈からではなく、自分自身の経験から来たものだ。そして、「なぜ」という部分は実際のところまったくどうでもいい。では紹介しよう。生に対する恐れを終わらせる、内側を見るという単純な行為を。

自分という感じのありのままに注意の光線を向けて直接触れさせるということを真剣におこなえば、人間としての苦悩の第一の原因である生に対する恐れを終わらせることになるだろう。この行為を私は「自分自身を見ること」と呼んでいる。心の目で自分自身を見てみようとするだけで恐れの病気が消え、それとともに、自分の人生こそが解決しなくてはいけない問題であるとか、破壊されるべき脅威であるという認識はなくなり、未来のいつかに充足と満足をもたらしてくれる秘密の宝は人生のどこかに隠されていて見えなくなっている、という考えも消える。そのくらい単純なことだ。

 

ステップ1: 自分の注意の光線を思いどおりに動かす練習

まずは、しばらくただくつろぎながら、注意を思いどおりに動かす力が自分にあるという当たり前の事実に注目しよう。

これを読みながら、この文からしばらくのあいだ注意を離して、呼吸の感覚に注意を向けてみる。胸と腹が膨れたり縮んだりする感じを意識し、それからこのページのこの部分に注意を戻す。「思いどおりに注意の光線を動かす」というのがどんな意味か、それがわかるまでこれを何度か繰り返す。注意を思いどおりに動かすという、今まさにやってみたとおりの行為が、私が勧めていることを成し遂げるために必要なすべてだ。この単純な行為を練習すればするほど、それがどんな感じかがよくわかってくる。そして、その「感じ」に慣れてくるほど、注意の光線をしかるべきところに向ける際のスキルと的確さが向上することだろう。

ステップ2: 注意の光線を内側に向ける

そのスキルを、注意の光線を実際に内側に向けるのに使いながら、自分という感じのありのままに何の媒介もなく直接触れてみる。「自分という感じのありのまま」とは「自分」のことであり、本当にそのまま、単純な「自分」だ。自分がどういうものであるかは誰にでもわかっていて、今言ったようなやりかたで自分を見ると、これが自分自身だと間違いなく認識できる。本当にそのくらい簡単だ。注意を自分に向けてみようという気持ちになったときは、気が済むまで繰り返すといい。

ステップ3はない。

 

自分自身を見るやりかたを耳で聴きたい人はこちら (訳注:英語)

自分を見てみた人たちのレポートはここで聴ける (訳注:英語)

 

どこに注意を向けるかについてのヒント

内側を見るというこの行為は単純なものであるかもしれないが、実際にしてみようとすると、簡単であるとはまったく感じられないかもしれない。でも、こう考えてみることもできる。自分の感覚というのは、いつでもここにある唯一のものだ。他のすべて ― 考え、信条、理解、見えるもの、聴こえるもの、感じられること、感情、痛み、喜び ― まさに自分以外のすべては現れては消えていく。つまり、自分を見つけるというのは、いつでもここにあるものだけを見つけるということだ。新たに現れたものは、それがどれほど素晴らしいものだとしても、自分ではありえない。それと同じで、以前ここにあって今はないものは、それがまた戻ってくる可能性があるとしても、自分ではありえない。

さらに言えば、自分とは無地で不動の場であって、他のすべてはその中に現れては消えていく。自分が自分に与えられるものは何もないし、自分から取り去れるものも何もない。そのため、心の目から見ると、自分というのはどうにもならないほどつまらないものだ。心の目の唯一の目的は、警戒を続けること、そしてつかむべきもの、拒絶し破壊すべきもの、輝きながら動きつづける途方もなく魅惑的で派手な現象の一大パレードの中で無視してもよさそうなものをそれぞれ見分けるという仕事を続けることなのだから。

生に対する恐れは一種の自己免疫疾患だ。その疾患の作用は、狂気の沙汰のようではあるが、自分の生から自分を遠ざけておくことであり、それを実現するためには、生じる現象に絶え間なく注意を注ぐことが必要となる。そのために、注意は自然にいつでも外に向けられていることになる。自分というのは、それに対して、全面的に完全に内的なものだ (この点については後に詳しく述べる)。

この試みにおいて実際に役に立ったヒントをいくつか紹介しよう。

  • 幼いころの出来事の記憶を頭に思い浮かべる。重要な出来事である必要はない。大人と一緒に部屋にいるとか、映画館から出るとか、窓の外を見るとか、その出来事の感じをある程度正確に思い出せるのであれば、どんな記憶でもいい。そして、一瞬でもいいから、そのときに自分であるというのはどんな感じがしたかを思い出せるかどうかやってみる。その出来事がどんな感じだったかではなく、そのとき自分であるというのがどんな感じだったかだ。そのかすかな雰囲気を感じられるかもしれない。もしそうなれば、それがの自分の感覚とまったく同じであることにほぼ間違いなく気づくだろう。

  • 自分自身の存在を確信しているという事実に注目する。世界にそれ以上に確かなことは何もない、という確かさだ。その確かさに注意を向けよう。というのは、まさにその確かさが自分の別名だからだ。

  • いつでもここにあり、絶対に動かず、変化せず、現れず、消えないものを見つけてみよう。宇宙に存在しているものはすべて動く。すべてのものが動くのだ。自分以外は。


  • 自分の人間っぽさに注意を向けてみよう。宇宙に存在するもののなかで、人間だという感じを感じるのは自分だけだ

  • ・内側には自分以外には文字どおり何もないということを見てみよう。さまざまな感覚や経験が内側で起こっていると考えられているが、そうではない。感情、考え、見えるもの、夢、欲求、嫌悪、痛み、喜び、心の中に現れるあらゆる種類の経験は自分の外側にあり、そうしたものに注意を向けているときに見ているのは外側だ。どんなにそれが内側にあるように感じられるとしても。外側を見るのが間違っているという話ではまったくないし、人間として生きていく上での主な仕事は外側を見ることだと言ってもいいだろう。ただ、ここで言っているのは、自分自身を見ようとしているときには、外側は自分が見つかる方向ではないということだ。この区別の意味がわかれば、自分の注意を正しい方向に向けるために外側の現象を使うことで、自分への帰り道を見つけられるかもしれない。本当の意味で注意が内側に向けられるとき、そこで直接注意が向かっている先は自分であり、他のものではない

おそらく、この道をすでに歩んだ人たちに聞けば、こうしたヒントがもう少し得られるとは思うが、そうしたものは、よく言われることではあるが、月を指している指にすぎない。指されている月とは自分にほかならない。最終的には、自分でやるしかない。結局のところ、注意の光線で触れようとしているのは自分であるわけだし、自分であるという感じを知ることができるとしたら、それは自分以外の誰かではありえない。

 

態度も期待も関係ない

ひとつ理解しておいてもらいたいことがある。それは、見ることがうまくいったのを確認できるような、実感を伴うはっきりした経験は起こらないかもしれない、ということだ。すでに書いたとおり、心の目から見ると自分というものはあまり面白くはないし、自分の本質のありのままとの接触は、あっという間もなく終わってしまう可能性もあって ― 1秒の10分の1、あるいはもっと短いかもしれない ― 、それが起こったということに気づかない場合もありえる。だが、よい知らせがある。それはどうでもいい。 これまでの多くの人たちの経験からはっきりしているのは、真剣に試みれば絶対に失敗しないということだ。失敗したという感覚がどれほど強くても関係ない。私たちがこれをする理由は、結局のところ、自分は誰であるかを見つけ出すためではないし、自分とは何なのかを理解するするためでもないし、自分の本質と融合して本当の自分になるためでもないし、そういうこととは関係がない。私たちがこれをする目的は、内側に注意を向けるという薬で生に対する恐れという病気を治すこと、それだけだ。

この行為に必要とされるのは、たったひとつのことだけだ。それは、自分の本質のありのままを直接経験するために注意を内側に向ける意図だ。その意図が生まれたときに、それを不快に感じたり、恐れたり、却下したくなったりするかもしれないが、それは関係ない。意図が生じれば見ることは起こるだろうし、見ることが起これば結末は決まっている。

この試みに関しては、興味深い側面がもうひとつある。態度も期待も最終結果にはまったく影響しないようなのだ。自分自身を見てみようという意図は、いろいろな理由で生じる。幸せになりたい、世界を救いたい、痛みから解放されたいといった理由で自分自身を見ることを決心することもあるだろう。あるいは、自分は見ることに100%コミットできていないから効果があるかどうかはわからない、と思うかもしれない。そうしたことはまったく問題にならない。問題は、自分自身を見るその瞬間だけだ。見ることは必ず効果を生む。それについてどう考えているか、そこから何が得られると思っているかは関係がない。

内側を見るという行為は、どんな意味でもそれ自体としては目的にならない。生に対する恐れという病気から解放されるための手段にすぎない。作用が完了すれば、生きることに完全に没頭することになって、もともと何が不満で見ることをしようと思ったのか、思い出すのも難しくなるだろう。

 

回復の過程は不確定だが成功は保証されている

生に対する恐れという病気からの回復がどんな過程をたどるかは予測不能だ。かなり簡単にものごとが片づいて、精神的な苦痛もほとんどなかったという人たちもいれば、回復の過程が長期にわたる非常に苦しいものになるケースもある。私自身の場合、回復期間は相当不快なものとなった。強烈な不満の感情が爆発していたということに気づくだけで、1年かそれ以上かかった。人生との関わり方がまったく以前とは違う楽なものになっているということに気づいたのは、それからさらに5年たってからだ。そして、自分が見つけたことについて明確に話せるようになるまで12年以上かかった。

つまり、回復期がどのくらい続くか、そしてどれほど困難なものになるかは不確定だ。けれども、見てしまえば、終わりは必ず来る。生が自分をやっつけようとしているとか、自分はこの場所にはまりこんでしまっているといった感覚はなくなる。自分の中にやって来て消えていく考えや感情や意見や感覚、現実の変わり続ける人生をかたちづくっているそうしたものから自分を守らなくては、という感じもなくなるだろう。自分の中にやって来ては消えていくものごとが、どれもきわめて興味深いことに気がつくようになるが、それは、恐れによって視界が曇っていたときには想像もできなかった面白さだ。

いずれは、人生に完全に没頭している自分に気づくだろう ― これまでもずっとそうだったように。だが今や、生が実際に繰り広げられるそのありさまに自分が魅了され、興味を持ち、熱中し、元気づけられ、そしてそれを楽しんでいることに気づく。そのときにはっきりとわかるのは、自分の人生こそが、それまでどこか他の場所で探しまわっていた充足と満足だったということだ。あなたは正気になる。

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この記事の初出は2011年3月31日。2014年11月12日改訂。

ヒロ (resonanz360.com) による翻訳