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恐れよさらば、不安よさらば


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恐れよさらば、不安よさらばジョンとカーラ・シャーマン

単純なメソッドを学ぶことで、生に対する不満の根本原因、完全に満たされることは絶対にないように思える平安と充足への苦痛に満ちた切望の根本原因が取り除かれるだろう。

2015年8月15日改訂・更新

 

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私たちの約束

私たちがここで示しているのは、極めて単純なメソッドであり、これをすることで、生に対する不満の根本原因、完全に満たされることは絶対にないように思える平安と充足への苦痛に満ちた切望の根本原因が取り除かれるだろう。

ここで紹介するメソッドは、世界中の人々とワークを続けてきた16年にわたる経験の成果だが、彼らは自分自身の生との関係が良い方向に劇的に変化するのを体験してきた。

ここでは2種類のやりかたを紹介する。両方を試してみることをすすめる。どちらも同じ結果を生むはずだ。どちらの方法も、まず注意を内側へ向けることから始まる。これは誰にでもできる。注意を内側へ移したあと、心躍る発見の時間がスタートするが、そこでは自分の生をどう見るか、どう考えるかをコントロールする方法が身につくことになる。ひとつめの方法を私たちは「直接見る(Direct Look)」、ふたつめを「幼少時記憶 (Childhood Memory)」と呼んでいる。

約束できるのは、私たちがここで提案していることは、それをただやってみるだけでうまくいくし、そうすると自分の生との関係が永遠に変わるだろうということだ。このプロセスは生きているかぎりは終わることがない。人生で出会ういろいろな状況との関わりかたにおいて、正気さ、明晰さ、有効性といった面で成長が続いていくだろう。深まり続ける満足を見いだし、人間と生きるということの真の意味がよりはっきりと理解できるようになる。

ほとんどのケースで、注意を動かしたあと、混乱と心理的困難がしばらく続くことになる。私たちのウェブサイトには、そうした期間に起こることを理解する助けになったり、生とのこのまったく新しい関係の中を歩んでいくための理解と技能を磨く手引きになったりするような情報がたくさんあるし、コミュニティフォーラム (訳注:日本語無し) にも助けてくれる人たちが大勢いる。

皆さんの幸運を祈りながら。いつでも連絡歓迎だ。

 

直接見る

「見る」とはどういう意味か?

見るとは、意識にのぼるものが何であれ、それに対して注意を向けるときに私たちが自然におこなうことだ。たとえばこの瞬間について言うと、自分の注意のほとんどがこの文章に向けられていて、それ以外のことはほとんど無視しているということに気づくだろう。

注意を思いどおりに動かせることに気づこう。

はじめに、自分の注意を少しのあいだこの文字から離して、呼吸の感覚に焦点を合わせてみる。息が鼻を通って出たり入ったりする感覚に。

息が鼻孔を通り過ぎながら出ていくときに生じる皮膚の感覚に焦点を合わせる。目を閉じた方がやりやすいかもしれない。

これを自分で1分続けてみる。終わったら、ここに戻って続きを読もう。

注意を「自分」の感覚に向ける

いまやってみて、注意を動かして任意に選んだ感覚に集中させるのは比較的易しいということに気づくだろう。

では、注意を呼吸に集中させたのと同じように、今度は注意の焦点を内側に向けて、自分であるというのはどんな感じがするか、「自分」と呼んでいるものとしてあるそのかすかな感覚を探してみよう。

ここで探すのは、単純に自分が自分だというその感じだ。自分を通り抜けていく思考でもないし、自分の内側で戯れている感情でもないし、自分の内側に現れては消えていく感覚でもないし、どこかで聞いたか読んだかした自分の本質に関する観念でもない。自分とは、単にいつでもここにあるものだ。それ以外のすべて ― 思考、感情、感覚 ― は自分の中にやって来て消える。

動画と音声による指示 (訳注:英語)

 

幼少時記憶

まず、ただ座り、少しのあいだくつろごう。目を閉じて、自分の呼吸をしばらくただ見守る。特別なことは何もない。息が身体に入ってから出ていくその感覚に注意を向けておくだけだ。目を閉じたまま。息を吸って… 息を吐いて…。鼻から空気が入ってきて出ていくその感触に注意を集中する。これをだいたい1分ほど続ける。つぎに、幼いころの出来事の記憶を頭に思い浮かべよう。特別な出来事である必要はない。ジョンの例だと、8歳のころ、ニュージャージーの暑い夏の日に何かの午後の興行が終わって外に出てきたときの記憶といったものだ。

ただゆったりしながら、記憶が浮かぶのを待つ。はっきりとした記憶が現れたら、その記憶が頭の中で展開しつつあるとき、それを自分が映画を観ているように、映画の中にいる登場人物としての自分を外から眺めるように思い出していないかどうか、確認してみる。もし映画を客観的に観ているような感覚がある場合は、その場面の内側、記憶そのものの中に入って、その主観的な感じを感じてみよう。

そして、出来事の記憶が繰り広げられているとき、その当時の経験を主観的な感じで味わえているかどうか確認する。その中に入り込もう。たとえば、皮膚の温度を感じてみる。温かい感じか、冷たい感じか? 明るさはどんなふうだったか。暗かったのか、かなり明るかったのか。何かはっきりとした匂いはあるだろうか? 何かに触れたときのその質感を感じられるだろうか。音は何か聴こえるだろうか。当時の経験のその感じを感じてみよう。そのようにはっきりと記憶が感じられなくても大丈夫だ。別の記憶で試してみてもいいし、もうひとつの「直接見る」の方をやってもいい。

主観的に記憶を感じることができて、その感覚の中に入り込めたらすぐに、そのすべてを経験している自分であるというのはどんな感じかに注意を向けてみよう。

それができたら、もう一度注意を動かす。こんどは、自分であるというのはどんな感じがするか、いまの時点のその感じに注意を向ける。

これで全部で、言葉にして書くよりも実際にやってみる方がはるかに簡単だ。

今はこれ以上ほかにすべきことはない。内側を見るというこの単純な行為は、ほとんどの人間が生きる上で経験している不安、不信、不満という背景を自動的に解消するだろう。

内側を見ている状態にとどまろうとする必要も、その状態でくつろごうとする必要もない。見ることは非常に短いあいだに起こる。あまりにも瞬間的で、ほとんど気づくことはないはずだ。

自分自身を見るというこの単純な行為は、自分に合うやりかたで、したくなったときはいつでもしてよい。

 

このあとは?

自分自身を見ると呼んでいることについては、これで全部で、一度やるだけでいい。この行為がしばらく繰り返されることになるかもしれないが、そうなったらそれでいい。必要に応じて自然にこの行為は繰り返され、やがて単に起こらなくなる。

そのうちに、自分の生との関係が変わってくる。以前なら気がどうにかなりそうだったことに対する反応も変わるだろう。神経質なふるまいや自滅的な態度が消えて、否定性が影を潜め、前向きな行動パターンが現れる。

自分と自分の生のあいだの距離がなくなり、自分の生との親密さが新しい質でゆっくりと現れはじめるだろう。

あまりに簡単で、話がうますぎる? そう思えるかもしれないが、世界中の何千もの人たちが、この単純な行為が生との関係を変容させる力をすでに経験している。疎外と不信と恐れという関係から、生きるということの終わりのない驚異にまるごと自然に没入するという関係への変容だ。

 

生に対する恐れ

心理的苦痛のすべて、そして生に対する抵抗のすべては、信用ならない恐ろしい環境の中で心とその心理状態がかたちづくられることがその根本原因であり、そのことが生の経験そのものからの根源的疎外につながっている、というのが私たちの考えだ。 これが私たちの言うところの生に対する恐れであり、それはある種の心理的な自己免疫疾患であって、人生の最初期に起こる恐ろしい経験への反応として、ほとんどすべての人がその疾患にかかると私たちは考えている。生に対する恐れという疾患にかかるのは、自分はひとりの人間なのだということを意識するよりもずっと前、もっと言えば自分に心というものがあることに気づくよりもずっと前だ。この生に対する恐れとは、生はもともと恐ろしいものでまったく信用できない、という問われることのない前提であって、この目には見えない恐れと不信という土台の上で、人間の心は時間をかけて形成される。

私たち (訳注:ジョンとカーラ) が自分自身を見ると呼んでいる行為は、疑いと疎外という病的な環境をほとんど一瞬で崩壊させ、それによって心の再生成、そして病的な心理構造の解体への道がひらかれる。

こうしたことが起こるのは、自分の本当の性質 ― 自分 (「わたし」と呼んでいるもの) であるというのはどんな感じか ― を意識的にはじめて味わうという行為が、自分は恐ろしいことに囲まれているという根本的前提を静かにかつ完全に無力化し、それを一瞬で消し去ってしまうからだと私たちは信じている。そしてそれが起こると、病的な心理構造が脱落しはじめ、それと同時に、生を完全に経験し、生と賢く関わりあう未体験のありかたが新たに姿を現しはじめる。

私たちのワークの目的は、「自分」の感覚に注意を向けるというこの単純な行為とその結果を、人生は生きる価値がないという感覚に疲れ、理解も対処もできない世界につかまっているという感覚にうんざりし、何か欠けているものがあるという感覚が嫌になり、そして、恐れ、疎外、不安というこの疾患に苦しみ続けてきた長い年月のあいだにおかしてきた無数の失敗の中からしか生を有効に生きる方法は見つからないという感覚にくたびれている、すべての人々に届けることだ。

 

回復期

 

心の再生成

ここで言う生の恐れとは、目の前にある物理的な脅威を知覚したときに喚起されるような、状況に応じた恐れのことではない。私たちの言っている生の恐れは、神経症的な恐怖心、不安、生に対する不信といった、背景にあるかすかな雑音であり、自分や自分の生には何か間違ったところがあるという感覚、それは直すことも消すこともできないという感覚だ。ここではっきりと心に留めておいてほしいのは、生の恐れそのものは経験からは隠されているという事実、直接経験されることはまずないという事実であるが、それはなぜかといえば、生の恐れは意識されるより下のレベルに存在しているからだ。生の恐れが消え、生の恐れが原因で生じていた害がなくなってしまわないかぎり、生の恐れが人間としての生をだめにしている唯一の問題であることを理解するのは誰にとってもまず不可能だ。

私たちが経験する心理的苦痛を何が引き起こしているかといえば、それは人格の壊れた側面という暗影であり、そうした暗影は生は信用すべきではないという根源にある前提に染まった状態で生まれたものだ。大半の人の場合、心をかたちづくっている中身のほとんど全部、そして理解しようとする癖もその暗影の一部になっている。また、生の恐れを消すプロセスは簡単におこなうことができるものだが、そこからの回復は控えめに言っても心臓移植と同じくらい困難だ。

ここで心と言うとき、その言葉が意味しているのは、記憶、考え、知性を使う機械的な機構であり、その機構が自分の生の経験が今どうなっているのか、その経験をどう理解するか、それに対して自分ができることをどう理解するかを私たちに知らせる。

恐れによって条件づけられていない心を知る人はほとんどおらず、「心が自分である」という確かめられていない思い込みのせいで誰もが苦しんでいる。「私とは私の心だ」というこの思い込みこそが、心に対する憎悪をまさに生んだのであり、スピリチュアルな実践、自己啓発的な実践の中には、そうした憎悪によって特徴づけられるものもある。

だが、心は自分ではない。心はひとつの機構であり、それは生の経験を定義づけた上で表現する心理的な仕組みで構成されている。心は後天的に身につけた思考と判断という習慣に依存しているが、そうした習慣は生のさまざまな状況に応じて生まれたものであり、理解は心の目というレンズを通じてもたらされる。そして恐れの中でかたちづくられてきたほとんどの人たちの心の目は、生は何よりも恐れるべきものだという根本にある前提によって、歪んで偏ったものになっている。

 

さて、あなたは内側を見るということをやってみた。問題を理解し、問題の解決策を理解したから、それで問題は終わりだろうと思っているかもしれない。けれども、それほどたたないうちに気がつくのは、自分が全面戦争のまっただ中、生はそもそも危険で信頼できないという誤った観念以外には間違っていることは何もないという危険な考えに対して心が仕掛けた全面戦争のまっただ中にいるということだ。この精神的戦争において歩兵をつとめているのは、自然な生に対してずっとはじめから闘いを続けていた、盲目で無知な心理的構造だ。

見るという行為が成し遂げられて、それに続いて現れることの多い思いがけない気楽さの期間が消散したとき、そこにあるのは恐れのなくなった心ではあるが、生は信頼すべきではないという前提に沿ったかたちで形成された、自分自身や自分の生に対する病的な心理的習慣はそのまま完全に残っている。

そして気がつけば回復のプロセスにあって、戦争のただ中にいるが、いまやその戦争はかつてなかったほど激しいものになっている。とっくの昔に片づいたと思っていた否定的で自己破壊的なふるまいが再び姿を現し、猛威をふるう。やっとコントロール下に置いたと思っていた自分の一面がまた飛び出しはじめ、それはまるで、お前を痛みと混乱の中で溺れさせてやる、という執念深い決意に燃えているように見える。恐れの兵隊たちは、断固とした全面戦争の構えをとりはじめる。こうなったとき、何ができるだろうか?

哀れな境遇を呪い、自分自身を見てしまった日を呪い、自分自身を見るより以前、苦痛がコントロールできていたころの人生に戻りたいと願うかもしれない。あるいはただ待つだけで、何もしないこともありえる。カーラと私がしたのはそれだったが、それは、回復期を通り抜けるための案内がどこにもなかったからだ。心理的苦痛と混乱は、戦争がいつのまにか収束していたことに気づいたその日まで、ずっと続くことになった。一度だけ見ればよく、あとはプロセスが勝手に展開するだろうと私たちが言っているのは、そのためだ。だが、私たち二人よりずっとよいやりかたもできる。

ディスカッションフォーラム(訳注:英語) における対話の数々は、人類を絶滅寸前にまで追い込んだこの病気からの回復について、明確な理解をもたらしている。フォーラムのメンバーが回復のプロセスの経験について、そしてそれに向き合うもっとも効果的なやりかたについて、勇気と意欲をもって書いてくれているおかげで、回復期が過ぎ去っていくまでただ辛抱しているかわりに、回復の期間を自己信頼の技能を発達させるために活用する方法がわかるようになったのだ。

 

徹底的な自己信頼の醸成

わかったのは、自己信頼というのは、想像できるかぎりもっとも深い満足を与えてくれる生との関わり方だということだ。この徹底的な自己信頼を発達させるための方法は、きわめて単純だ。私たちが本当の意味で自分でコントロールできるのは、どこに注意を向けるかということだけのようだ。心にどのような考えや感情が現れるかということについては、どうすることもできない。奇妙に思えるかもしれないが、この点について少しでも直接調べてみれば、それが本当であることがすぐにわかるだろう。

自分の思考、自分の体、肌にあたる日の光の暖かさ、自分の健康についての心配、そして心の中にあるありとあらゆるものは、それを自分が経験するためには、すでに必ずそこに存在しているはずだ。すでにそこに存在してしまっているものについて、それに気づくということ以外に自分に何かができると考えるのはあきらかに馬鹿げている。この瞬間の自分の生の全宇宙は、ここにすでにあるからこそ、それに気づくことができるということは間違いない。

回復が進んでいるあいだ、一生続いてきた馬鹿馬鹿しい仕組み、脅威のように見える生に対処するための仕組みは無意味になる。根底にあった原因、つまり生に対する恐れは消えてしまうが、恐れの大群が、明晰な精神のなかに新たに生まれて育まれる信頼に足る心理構造に取って替わられるには時間がかかる。この期間中、恐れの老兵たちはまだそこにいて、正気に対して戦う姿勢をゆるめずにいる。このことに対してできることは何もないが、唯一できるのは、注意を向ける価値があるもの、ないものを自分自身で区別するのにとりかかるということだ。わかるのは、注意を何かに向けるだけでその対象に力を与え、逆に何かを無視するとそこから力を奪うということだ。回復についてもうひとつ心得ておくべきなのは、それが出産に似ているという点だ。非常に騒がしく激しいが、終わってしまえば忘れ去られる。

回復期のあいだ、日誌をつけることは非常に大きな助けになりえる。自分の心理状態の変化に気づいたときに、それについて書き留めておけば、進歩に気がつきやすくなる可能性があるからだ。

 

サイコセラピーは回復を楽にするか?

サイコセラピー (心理療法) によって回復のプロセスが加速するのではないか、という質問はよくある。サイコセラピーで問題なのは、特定の精神的問題を改善したり除去したりすることに集中しているという点だ。サイコセラピーがしようとしているのは、病的なプロセスに影響をおよぼすためにいろいろなかたちで注意を向けるということであり、そこで目的とされているのは病的なプロセスを改善したり、除去したり、何かと入れ替えたりすることだ。そのようなやりかたは、問題を抱えた心を、特定の神経症的心理構造という苦痛から一時的に解放するのには相当役立つ可能性があるが、私たちが生に対する恐れと呼んでいる広汎な恐れの影響で苦しんでいる心は、神経症の寄せ集め以上のものなのだ。そうした心は、生は恐ろしいものであり自分の存在そのものを脅かしているという前提の文脈の中で生じて、成長したものだ。サイコセラピー的な手法では、神経症の集合がひとつ消えたとしても、新しい集合が出てきてそこにおさまる。そしてその新しい神経症的防御機構は、みずからを無害であるだけでなく必要なものでもあると思い込ませることにかけては、その前のものよりも必ず巧みなのだ。セラピーという文脈の中でそうした心理的構造に直接注意を向けてしまうと、逆にその構造に力を与えたり、形態や位置を変えることで簡単に見破られないようにする能力をつけたりする結果になる可能性がある。

私たちの考えでは、恐れの作用からの回復の過程においては、さまざまに生じる経験を分析したり、心理的にどう関わっているかという点に注意を向けたりすると、回復の過程が単に長引くことになる可能性が高い。回復の期間において最善なのは、自分の注意にどう影響力を行使するかを練習し、それに熟達することであり、そのためにもっとも適しているのが、注意を向ける練習だ。この点についてはいくら強調してもしたりない。注意を向ける練習が目標としているのは、人生の中で自分にどんな選択があるのかが自分でわかるようになること、そしてそのときに何に価値があるか、何が有害か、何が重大でないかを自分自身で判断できるようになることだ。

私たちが勧める注意を向ける練習が第一に目的としているのは、特定の問題に注意を向けるのを拒むことによってそこから解放されることではない。問題から解放されるのは喜ばしいことではあるが。この練習の目的は、本当の意味で自分でコントロールできる唯一のものを自分の支配下に置けるようにすることであり、それがうまくいくと、自己信頼にもとづく完全な正気、そして今ここにある生への満足が現れ出す。

トラウマに誘発された特定の神経症から免れることを求めて自分の注意の向け先を変えたとしても、心の中ですでに進行している再生のプロセスが止まることはない。私たち自身の (訳注: ジョンとカーラの) 長く続いた回復の経験、つまり恐れの影響が心から消えていくプロセスがすでに進みつつあったことにまったく気がついていなかった経験からも、それはたしかであると言える。だが、私たちの経験から、そしてすでに回復期を通り抜けたすべての人たちの経験から学ぶことはできる。自分の注意に対して自立的なコントロールを確立するという一点に意図を絞れば、回復期間の長さもその苦痛もおおいに軽減することは間違いないし、絶対に後悔はしないだろう。

 

注意を向けるエクササイズ

このエクササイズの目的は、心のあらゆる側面と心理的構造をかたちづくってきた恐れという文脈が崩壊したあとの困難な期間において、自己信頼を醸成するのを助けてくれるもっとも役立つ技能を伸ばすことだ。

ここで覚えておいてほしいのは、恐れという文脈が、心のあらゆる側面と心理的構造がつくられる過程をコントロールしていた、ということだ。 自己信頼を深めるのに何よりも効果的なのが、思いどおりに注意を動かしたり注意の焦点を合わせたりする能力を伸ばすという方法だ。このエクササイズは、ひとつの対象に注意を集中させて他のすべてを無視する能力を強化するが、それはこの力を賢く使う際の自然な能力を向上させるひとつの手段となる。

このエクササイズは、一度に10分ほどおこなう。タイマーを使用して、終了の時間がきたらわかるようにしよう。

姿勢に特別な注意を払う必要はない。続けて10分間座っていられるような楽な姿勢でいれば十分だ。目は開けたままでもいいし、閉じてもいい。 このエクササイズでは呼吸を使うが、それは呼吸は勝手に起こっているもので、意識して注意を向けていなくても呼吸が止まることはないからだ。

落ち着いて座って、息が体に入り、体から出ていくようすに注意を向けてみよう。呼吸がどう起こっていても、それをコントロールしたり監視したりしないようにする。息が鼻孔を通って体を出入りするその感覚をただ見守る。体に息が入ってくるときには鼻孔を通り抜ける感覚は冷たく、体から出ていくときには息が温かいことに気づくだろう。鼻孔のその感じ、その感覚に注意を向け、そこに集中しよう。

鼻を出入りする息の感覚にしっかりと焦点を合わせる。息が出ていくたびに、頭のなかでその回数を数える。1、2、3、4 …。息を吐き終えたら1、つぎの息を吐き終えたら2、という感じに。

息を数えているあいだに注意がどこかに逸れて、呼吸の感覚以外のもの ― 身体の感覚、思考の流れ、音、かゆみ、視界を横切るもの ― に注意が移っていることに気がついたときには、声に出さずに自分の内側に向かってただ言う。「気が散った」。そして呼吸に注意を戻して、もういちど1から数え直す。カウントが10になったら、また1からはじめる。

これを1日に1回、10分間おこなう。おそらく最初は2か3までしか数えられないだろう。気を落とさなくてもいい。続けよう、あきらめずに。何度やっても2か3より先に進まないとしても、うまくいっている。覚えておいてほしいのは、大きな数字になるまで数えるのがこのエクササイズの目標ではないということだ。このエクササイズの目標は、自分の注意を思いどおりに集中させる能力を育て、高めることであって、筋肉を育てて鍛えるために筋トレや腕立て伏せをするときのようにおこなえばいい。

他のことに気を散らすことなく大きな数字になるまでカウントできている場合には、もっとしっかりと注意してみよう。注意が分裂してしまっている状態で自動的に回数だけを数えているということはよくある。

このエクササイズを十分に役立てるには、まず自分自身を見なければならない。この解説で紹介した指示に従うことで、いますぐに自分自身を見ることができる。

ジョンとカーラ・シャーマン

2015年8月15日改訂・更新

ヒロ (resonanz360.com) による翻訳